2020年4月22日水曜日

蛸杉と溶岩続き

以前、蛸杉の根方のボク石(溶岩)をみて富士塚の存在を想像したわけですが、その後の追加情報。やはりパソコンの前に座ったきりです。


国土地理院 伊能図 (相模 相模野 下総 武蔵 江戸)
https://kochizu.gsi.go.jp/items/383?from=category,10,index-map

どうやら西暦1800年前後には、関所から小仏方向へ少し進んだあたりに金毘羅台へ登る登山道があったようです。さらに小仏方向へ進んでから始まる蛇滝コースにこだわる必要はないようです。富士塚の根拠が少し薄れます。
伊能図 一部抜粋



富士塚の諸相 中島義一著
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/29520/rcr044-01.pdf

上記リンクより引用--
 高尾山にも富士講の碑がある。十一丁目茶屋前にあり,下谷十行講が建てたもの,これより蛇滝まで八町と記され高尾山内の案内を兼ねる。基部のそばには富士山の溶岩がある。高尾山に寄ってから富士吉田に向うのが富士登拝の普通のコースだった17)というからその関係で立てられたものであろう。
17)青柳周一(1994):富士講と交通(交通史研究33)
--引用終わり

やはり富士講と関係する溶岩のようですが、富士塚をなすボク石(溶岩)であった証拠にはなりません。また、浅間社は十一丁目茶屋からさる園にかけてのあたりに存在したかもしれません。合目石でも見つかれば富士塚の存在は確定なのですが。

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