2018年7月10日火曜日

蛸杉根元の溶岩の由来についてパソコンの前に座ったきり想像する

史料紹介―道中日記史料と民俗
 上記リンク先の資料に富士参詣の旅日記(帳簿)が2例示されている。そのうちの2例目が群馬を出発して高尾山を経由して富士山、さらに大山、江ノ島を巡る道中となっている。道中の一部を簡略抜粋すると。
拝島---八王子---駒木野--浦番所---高尾山札---多摩川渡し---小仏峠泊まり
となっている。どう考えても多摩川渡しの位置がおかしいが、ほぼ道中の行程を示しているようだ。正しくは以下の行程だと思う。
 拝島---多摩川渡し---八王子---駒木野---浦番所---高尾山札---小仏峠泊まり
 ここで気になるのが浦番所と高尾山札。浦番所はおそらく小仏関所だと思うが、そう解釈すると高尾山札を購入したのは果たして薬王院なのかという疑問が出てくる。 「『富士山道しるべ』を歩く 改」によれば駒木野より八王子寄りの「コナシ(小名路)の手前で高尾山道を見送る」とある。どうやら江戸時代においても高尾山薬王院を参詣するには現在の国道20号線を通って1号路で登山するのが正式であったようだ。コナシで高尾道を見送って駒木野、小仏関所へと進む都道516号線の場合は高尾山薬王院へ登らずに小仏峠を目指すのが一般だったようだ。
 では高尾札はどこで購入したのか。ひとつは小仏関所を越えたあたりに札を購入できる授与所があった可能性。もうひとつは蛇滝から高尾山へ登った可能性が思いつく。そしてこの蛇滝から登るコースが蛸杉の根方の溶岩の由来を説明するかもしれない。

 江戸時代の風景画
  上記リンク先の高尾山の絵図によると、江戸時代にはケーブルカーの高尾山駅あたりに浅間社があったようだ。一今杉(一本杉?)と読める目立つ杉は蛸杉か。それはともかく、この絵図では山の向こう側になるので記載がないが、蛇滝から登るコースをたどると、この浅間社あたりに出てくる。もしこの浅間社に富士塚でもあれば、小仏峠を目指して高尾山を素通りする富士参詣者も薬王院へと登ってくるかもしれない。しかも一ノ鳥居をくぐって1号路を登ってくる参詣者もこの浅間社を通る。より多くの参詣者を集めるには重要な場所に思える。ここに富士塚があっても不思議ではない。
 現在この場所に浅間社はない(たぶん)。代わりに駅やビアマウントがる。おそらく蛸杉の根方の溶岩はこの浅間社にあったと想像される富士塚を転用したものではないかと思う。ひょっとすると江戸の終わりの神仏分離令で一ノ鳥居とともに取り崩されたのかもしれない。

 最後に、蛸杉の根方の溶岩を見て、そこから富士塚を想像するのは飛躍があると思うかもしれない。しかし、根方の溶岩は切り出された建材用ではなく、明らかに黒ボク石、つまり溶岩流表面のクリンカーで、これは富士塚に用いられる溶岩の特徴である。造園用として用いられることもあるが。

 ということで、以上ほぼ勝手な妄想でした。たぶん間違えてます。